17/9/7 

おじいちゃんが死んでから慢性的に哀しい。ずっとおかしい。人はいつか死ぬという事実に耐えられない。

 

最近私自身に変化が起こった。環境がまた変わりつつある。

 

お笑いをやっていた頃、そのずっと前も、「どこかの誰か」にならないと何も出来なかった。演じる。なりきる。「私」として誰かと喋るのは難しい。誰かになっているのはとても楽だった。今ならなくてはならない新しい「私」は、どうしたらいいのかわからなくて困る。可愛くもない。面白くもない。うまく喋ることも出来なくて、人にずっと怯えている。あの子はいいな。うらやましいな。どうしたらいいんだろう。

 

慢性的に哀しい。

 

昔は私の中のいろんな人が背負ってくれたこと、考えてくれたことが、今は「私」一人に任されている。

 

どこかに出口はあるのだろうか。

 

おじいちゃんが元気で、おばあちゃんも今みたいに髪が真っ白じゃなくて、もっとふくよかで、ずっと笑顔だった頃を毎日思い出す。「みっこ、泊まってくが?」って二人して笑う。ちっちゃい私はイヤイヤして首を横に振る。倉の前に繋がれたコロを見に行く。散歩したいけど、ガバッと飛び掛かってくるコロが怖い。おじいちゃんは目が青い。おばあちゃんは私にそんなに何個も茶碗蒸し食べちゃだめだと叱る。

 

気付いたらコロはいなくて、おじいちゃんは死んで、おばあちゃんはとってもちっちゃくなって、あんまり笑ってくれない。年の離れた兄二人が倉で見付けたおじいちゃんのずっと若い頃の写真を見て、おばあちゃんはちょっと笑う。兄二人は、私を倉には誘ってくれない。それがずっと寂しい。おじいちゃんの若い顔は、なぜか私にそっくりだった。

 

どこにも胸を張れない。私は綺麗な服を着たり、おしゃれなお店に入ることに抵抗がある。私は、私とゴミの区別がうまく出来ない。私は私がとても汚いと思う。それでも、好きな人たちのために頑張らなくてはならない。自分で自分が嫌いじゃない。私は汚いものが好き。汚いものは優しいのだ。

 

私は全然期待されていない。ごめんなさい、って思う。頑張らなければいけない。